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しかたのない蜜

しかたのない蜜

神域の花嫁 92~99

 凛太郎、明、そして秀信と祥は大津家の朝食の席に着いた。
 その日、朝食の席にさゆりはいなかった。 あれから、さゆりは帰宅してからずっと自室に閉じこもり、一歩も外に出てこなかった。
「さゆりのことなら、心配なさらないでください」
 凛太郎に、文彦は食卓で告げた。凛太郎がさゆりの姿を探していたことを見て取ったのだろう。
「でもさゆりさん、昨日の夕飯も食べなかったみたいだし……」
「そうですのよ。わたくし、さゆりお嬢様が好きな茶碗蒸しを作ったんですけどねえ。お嬢様のお部屋にまで持っていってさしあげたんですが、お部屋にも入れていただけなくて……」
「タエさん、そんなにあいつにかまわなくていい」
 文彦は、大津家に長年仕える家政婦にぴしゃりと言った。人の良さそうなタエは、朝食の盛りつけをしながら心配そうに眉をひそめる。
「で、でも、お嬢様のお体にさわるのではと……」
「さゆりの気まぐれにこっちが左右される必要はないんだ」
 厳しい表情で、文彦は箸を動かしながら言った。明は大飯をほおばりながら言う。
「でもよォ、さゆりちゃんはさゆりちゃんなりになんか悩んでンのかもしンねえぜ。どっかの男にしつこく言い寄られて困ったりとかよォ」
 凛太郎は明の言葉に、思わず手にしていた湯飲みを落とした。一同が凛太郎に注視する。
 湯飲みの中のお茶は凛太郎の膝をあやうくすりぬけ、大津家の床を濡らした。
「ご、ごめんなさい」
 凛太郎はあたふたと床を拭こうとする。
 タエは大丈夫ですか、と言いながら素早くふきんを持ってきて、床にこぼれたお茶をぬぐい始めた。
 凛太郎はさゆりが昨日襲われた一件に自分と同じく遭遇した秀信を横目で見た。秀信は涼しい顔で品良く焼き魚に箸を運んでいた。
 昨日、さゆりの部屋を訪れて、安否を確かめようとする凛太郎を秀信は制した。
『人には、一人になりたい時があるものだ。特に今のあの娘のように、自分が汚れていると思う時はな』
 秀信はそう言って、どこか苦い目をして笑った。
『自分が汚れてるって……』
『お前はそんな気分になったことはないのか?』
 秀信に問われて、凛太郎は言葉を失った。(やっぱり先生みたいな大人は、僕と違って人生経験をいろいろ積んでいらっしゃるから、落ち着いておられるんだ)
 凛太郎はちょっとしたことでうろたえる自らを恥じた。タエが手早く拭いた食卓の上の食事にふたたび箸をつける。その拍子に、向かい側に座っていた文彦に目をやると、文彦は青ざめた顔をしていた。
 文彦は凛太郎と目が合うと、急いだ様子で笑顔を作った。
「凛太郎さん、タエさんのみそ汁、おいしいでしょ?」
「え、ええ……」
 凛太郎は文彦の屈託のない笑顔に、さきほどかいま見た文彦の暗い表情は自分の目の錯覚だと思うことにした。

 こうして朝食は終わった。
 文彦は人形を作ると、自宅内にある工房に向かった。タエは家事を始める。
「あー、食った食った」
 明は凛太郎の膝に頭を載せた。二人は秀信から指示が出ないので、あてがわれた部屋にいた。
「よせよ、明。文彦さんや先生がここに来たら困るだろう」
 凛太郎は明の手をぴしゃりとたたきながら言う。明は凛太郎の膝に指を這わせ始めていたのだった。
「だーってよォ、俺らここに来てから一度もしてねえじゃん。どうせこれから戦うんだろ。だったら、ここいらでお前に気を与えてもらいたいところでさ……」
 明はもがく凛太郎を軽々と押さえつけ、凛太郎にキスしようとした。
 その時、ふすまががらりと開いた。
「凛太郎様、明様……」
 そう言って入ってきた祥は、唇を寄せ合った格好になった凛太郎たちを見て、おやおやというように眉を寄せた。
 凛太郎はあわてふためいて、明の体を押しのける。
「ち、違うんです、祥さん! これは……」「まったくさすが陰険眼鏡の飼い犬だな。他人の恋路を邪魔しやがる。人の部屋に入ってくる時は声くらいかけろよな」
「申し訳ありません。何度かお呼びしたのですが、ご返事がなくて」
 祥は垂れた目を柔和になごませた。いかにも人の良さそうな笑顔は、式神相手に戦っている時の鋭さはまるでなかった。
(祥さんって不思議な人だよね。よく気もつくし、親切だけど。なんかつかみどころがないっていうか……)
 凛太郎は祥の笑顔を見ながら、ぼんやりとそんなことを思う。
 祥はそんな凛太郎をいきなり見つめ返して、真顔になった。
「凛太郎さま」
「は、はい、何でしょう」
 自分の考えが祥に読まれてしまったのかと思い、凛太郎の声はうわずる。
「私といっしょにナンパに行きませんか?」 陽光を体いっぱいに浴びて、祥はさわやかに提案した。
「ナンパ? 行く行くっ!」
 呼ばれてもいないのに、明が身を乗り出した。

「ここらあたりでいいですかねえ……」
 祥はハンドルを握りながら車を徐行運転させていた。祥が車を走らせて向かったのは、駅前の商店街近くの道路だった。
 とは言っても、小さな町の商店街なので店などは数えるほどしかない。
 車内には凛太郎と明しかいなかった。秀信は誘わないのかと凛太郎が問うと、祥は答えた。
「秀信様はこういった俗事に興味はございませんので」
「そうだよなあ。あの陰険野郎はずいぶんと気取ってやがるからよ。ああいうのに限って、裏では何やってんだかわかんねえんだが」
 明はそう言って、けたけたと笑った。祥もつられて笑う。凛太郎は祥のその笑顔になんとなくとげがあるような気がしたのだが、きっと秀信が祥に聞き込みをまかせたのが重荷なのだろうと思うことにした。
 祥の言う「ナンパ」とは、地元の女性に聞き込みをしようということなのである。
 祥は秀信からさゆりの事件を聞いていたらしく、さゆりを疑い始めていた。実際、さゆりに酷似した少女が、式を放ったのを見たのだから祥の疑いは当然と言える。
 昨日一日、明と祥は二人で村を回ったが、妖気は感じなかったというのだ。
 さゆりの通う村でただひとつの公立高校は、一クラスしかなかった。だから聞き込みもしやすいと祥は言うのである。
 そして放課後が始まり出した時間帯の今、祥はさゆりのクラスメイトとおぼしき少女に聞き込みを開始しようとしているのだった。
「でもさゆりさんのクラスメイトに聞き込みをするんだったら、校門前でした方がいいんじゃないですか?」
 ブレーキをゆるくかけながら、辺りに目配りしている祥に凛太郎は訊ねる。車外には、それなりにカラフルな看板をかかげた店が並んでいた。
「そういうことをすると、うるさい先生たちが飛んできますから。それに今の私のような立場のよそ者には、普通の学生は話しかけられても警戒するものです。だから、こんな商店街を放課後うろついているちょっと不真面目な女の子の方がひっかけやすい」
 祥は値踏みするように、車窓の外を見ながら語った。それは秀信に対する真摯な口調とは違った、遊び慣れた若い男のものだった。
 凛太郎は祥の意外な一面を見たような気がした。弓削家という特殊な環境に身を置きながら、祥はそれなりに”遊んで”いるのかもしれない。
 祥が凛太郎と明のキスシーンを見ても、やれやれといった調子で微苦笑していたのも、そう考えると納得がいく。
 凛太郎は、秀信と祥に勾玉が自分と鈴薙の子であることは打ち明けている。
 だが、凛太郎が明と不本意ながらも関係があることは知らせていなかった。祥が数々の経験を積んでいたとすれば、凛太郎と明の関係など取るに足らないことなのだろうか。
 異端視されないことはありがたい。
 だが秀信の忠実な部下だと思っていた祥に、こんな一面があることはどうにも不潔な気がした。
(僕って自分勝手かなあ……)
 凛太郎は、祥の端正な横顔を見ながらそう思う。もう自分は、清らかな肉体ではない。肉体の快楽も、明や鈴薙によってじゅうぶん教えられている。
 だが他人が、特に祥のような信頼を置いていた人物が、遊びでセックスを愉しんでいたとなるとどうも眉をひそめてしまうのだ。
「凛太郎さま、私の顔になにかついていますか?」
 不意に祥が、車窓から凛太郎に顔を向けて訊ねた。
「え、えっ?」
 虚をつかれて、凛太郎は口ごもる。祥は微笑した。
「いえ、凛太郎さまが私の顔をじっと見ておいでですから、祥は嬉しくなってしまったのです。凛太郎さまを口説いてしまえたら、どんなに楽しいだろうかと思います」 祥は凛太郎の目をいたずらっぽくのぞき込んで微笑んだ。その目は、秀信とはまた少し違った大人の男の匂いがして、凛太郎の頬は上気する。
 明は祥を指さしながら叫んだ。
「てめえ、ふざけんじゃねえぞっ」
「申し訳ございません。つい冗談を言ってしまいました」
 軽やかに笑う祥に、明がパンチを入れようとした時、祥は車外に向かって声をかけた。
「あのう、君。ちょっと僕ら道に迷ったみたいなんだけど、いいかな?」
 祥は道行く女学生に向かって話しかけていた。先ほどまでのくだけた笑顔は消えて、すっかりまじめそうな好青年の顔になっている。
「さすが陰険眼鏡の飼い犬だこと」
 明が舌を出しながらつぶやいた。  
祥が声をかけた女学生は、少し不良がかかったような少女二人組だった。里江などから比べれば少しはおとなしい方だが、あきらかに校則違反の茶色い髪と、人を値踏みするような双眸は共通していた。
 背の高い少女は長髪で、低い方はショートカットだった。
 少女達は祥に声をかけられると、しばらく警戒していた。が、祥がそれに気づかない体で語り続ける。
「僕、こういうものなんだけどね」
 祥はブルゾンから一枚の名刺を取り出して少女達に見せた。
「え、”ハイティーン”の編集者っ? すごいじゃん!」
「業界の人ってやつっ? 芸能人に会ったことあるぅ?」
 少女達は名刺をかぶりつくように見つめている。
「おい、てめえ。いつのまに陰陽師の犬から業界人になったんだよ?」
 後部座席でわめく明に、女子高生たちはうろんな目つきをした。
「あ、彼はね、僕の編集アシスタント。主に力仕事をやってもらってる。体育会系で元気が有り余ってるからよくこうやって大声を出すんだ。そのかわりに深く物事を考えるのは苦手みたいだけど」
「ざけんじゃねえ! てめえ、ぶっ殺すっ」
「明くん、だめじゃないか。女の子たちが怖がってるよ」
 祥にたしなめられて、明は車外の少女たちに気づいた様子だった。引いている少女達に明はそれまでの怒り顔とうってかわった愛想笑いをする。
「よっ、すまねえな。俺、明っていうんだ。よろしくよ」
 やにさがる明に凛太郎はあきれて物も言えなかった。
「妬けますか、凛太郎さま?」
 ドライブシートから祥がいたずらっぽく笑いながら訊ねてくる。凛太郎は赤くなりながら口をとがらせた。
「ど、どうして僕が明なんかに……」
「隠さなくてもいいのですよ。では凛太郎さまも明さまに嫉妬させてしまいましょう」 祥はそう言うやいなや、凛太郎の体を軽くつきとばして、車窓から出すようにした。「わっ!」
 凛太郎が驚く間もなく、少女たちが歓声を上げる。
「きゃあ、かわいい!」
「すっごく綺麗! 女の子みたい! でも……男の子だよね?」
 少女たちはきゃっきゃっと騒ぎながら、凛太郎の髪や頬を触った。もう明のことは見向きもしない。凛太郎はやめてくれともはっきり言うことができず、されるがままになっている。
 明はしばし複雑な表情になった。それから深呼吸して怒鳴った。
「お前ら! 俺の凛太郎ちゃんにベタベタ触るんじゃねえ!」
 明は凛太郎の体をぐい、と引き寄せて胸に抱く。
「わ、何、この人!」
「ひょっとして妖しい関係ってやつっ?」 少女たちは手を取り合って、きゃあきゃあと明るい歓声をあげた。
 凛太郎が明に「僕から離れろ」と指令を出そうとした時、祥が注釈を入れた。
「この人は今度デビューするモデルなんだ。凛太郎くんっていうんだよ。で、明くんは彼の大ファンで付き人に立候補してる」
「てめえ、どうして俺が付き人なんだよ?俺だってモデルくらい……」
 明は凛太郎に抱きついたまま、祥に食ってかかった。凛太郎は祥の手前、真っ赤になって明を押しのけようとするが無駄な抵抗である。
 ふと真顔になって、祥は少女達にたずねた。
「ねえ、君たちの周りで最近変わったこととかない? 今度雑誌に載せようとしてるんだけど……」
 少女達は即答した。
「あるある!」
「クラスに大津さゆりってコがいるんだけど、そいつ魔女なの! さゆりに悪さした人間はみんなひどい目に遭うんだから!」

「さゆりさん、だっけ? ふだんはどんな子だったのかな?」
 町にある小さな喫茶店で、祥は二人の女子高生に尋ねていた。
 二人の名前はミキとケイコと言った。背の高い方がミキで、低い方がケイコである。
 凛太郎はオレンジジュースをすすりながら、驚きあきれながら祥を観察していた。
 祥は雑誌のための取材というお題目でケイコたちをこの喫茶店に誘った。
 彼女たちを愛想良く持ち上げて、たくみな誘導尋問で心を開かせるさまはお見事としか言いようがなかった。
「こいつ絶対女泣かせたことあるよな。だましたあげくに貢がせたりして」
 凛太郎はそういう明をいさめつつも、実際その通りだと思う。
 明は祥のことを「ふてえやろうだぜ」とぶうたれつつ、ショートケーキとフルーツパフェを交互に食べていた。
「そんなに悪いやつじゃなかったよ」
 ケイコが口を開く。
「うん。物静かでちょっと近寄りがたいところあったけど、話してみると結構冗談とか言ったりするし」
 ミキが祥を上目遣いで見ながら言った。そのひとみはすっかり恋する乙女である。
「そうなんだ。僕なんかオヤジギャグ大好きでいつも上司にあきれられてるよ」
 祥はブラックコーヒーを一口飲んでから言った。
「お前、その上司って陰険メガネのことか?」
 明の問いを無視して、祥はケイコたちに尋ねた。
「そのさゆりちゃんってコのこと、もっと聞かせてほしいんだけど」
 ケイコとミキが語った内容はこうである。
 さゆりは「魔女」と呼ばれる以前から、謎めいた少女だった。
 小学三年生の時、忽然とこの町から姿を消し、中学一年生になってから突如として戻ってきたというのである。さゆりが行方不明になった原因は当時存命中だった彼女の両親にも皆目分からず、結局は「神隠し」ということで片づけられた。
 何でもさゆりは裸のまま、大津家の玄関前に早朝立っていたそうである。
 中学二年の一学期の途中でいきなりクラスに編入してきて、しかも得体の知れない過去を持つさゆりは普通なら異端視されていじめの標的になってもおかしくないのであるが、
決してそういうことにはならなかった。
 なぜかさゆりは授業にもついてこれたし、むしろ成績は優秀だった。
 しかもミステリアスな美しさを持つ外見とはうらはらに、性格も勝ち気なところはあるが快活だった。
 さゆりの美貌をねたんだ女子生徒が一度さゆりに聞こえよがしに悪口を言ったことがあった。何でも「神隠しにあったいまわしい子」と言ったそうだ。するとさゆりは彼女ににっこりと笑いながら言った。
「そうなの。私、十三歳にしては変な人生送ってるでしょ? だからそのうち本でも書いて作家デビューしようと思って。あなたのことも書いてあげるわ。つまんなくて意地悪な女がクラスメイトにいたってね」
 さゆりの切り返しにクラス中は沸き立ち、さゆりのことを悪く言うものはいなくなった。 さゆりは神隠しに遭っている間のことは何も覚えていないと悪びれずにケイコたちにも
話していた。
 さゆりはイエスかノーははっきり意思表示するタイプだったが、さばさばした気性のため、人には好かれる性質だった。クラス委員などは「めんどくさくてやりたくない」タイプだったが、荷物を抱えたおばあさんを見ると必ず荷物持ちを申し出た。クラスに運動音痴をからかわれる女子生徒には、放課後つきっきりで跳び箱の特訓をしたそうだ。
 むしろさゆりより問題のある行動を取っていたのは彼女の兄である文彦だった。東京の一流芸術大学に現役合格したのにもかかわらず、わずか一年で退学して実家に戻ってきていた。平日の昼間にぼんやりとひげ面で公園のベンチに座っている姿には、思い詰めている雰囲気があって、何か犯罪を引き起こすのではないかと危惧していた大人たちもいた。 だが、文彦はある時から打って変わって町の有名人になった。文彦の作った人形がとある大きな芸術コンクールで一位を取ったのである。その人形は生きているかとみまごう美少年の等身大人形だった。
 ケイコとミキが人間だったら絶対に彼氏にしたいと思うほどの美しさだった。
 文彦の作る人形を欲する人間からの依頼がひっきりなしに訪れ、大津家はみるみるうちに富裕になっていった。家の改築をし、新車も買ったそうだ。
 だがそれとは反対にさゆりは次第に影のある少女になっていった。
 口数も減り、無断欠席も増えた。さゆりが学校を休んでいる間、見知らぬ大人の男の運転する自動車に乗ってどこかへ行くのを見たという証言も多数現れた。それが「さゆりが援助交際をしている」という噂になるまでそう長い時間はかからなかった。
 なぜなら民間陰陽師である大津家が桂女を営んでいたことは町中で知らぬものはなかったからである。それまでさゆりがそのことでいじめられなかったのは、さゆりの明るい気性に惚れているものが男女問わず多くいたからだった。
 だがさゆりが自分たちに笑顔を見せなくなり、見知らぬ男と遊び歩いていたとなると事態は変わってくる。彼らにしてみれば、さゆりが自分たちに飽きて、もっと華やかな大人の世界に行ってしまったように見えるのだ。かわいさあまって憎さ百倍とはよく言ったものである。
 さゆり自身も冷たい態度を取られたり、悪口を言われたりしてもなんのリアクションもしなかった。ただ醒めた目で彼らを睥睨した。
「やっぱり、家が金持ちになってお高く止まってんのかしらねえ」
 ミキは祥のおごりである二つ目のショートケーキをパクつきながら言った。特大チョコレートパフェをほおばりながら、ケイコが反論する。
「違うんじゃないの? やっぱり親が事故で亡くなったってのが大きいんじゃないの? そのショックでヤケになったとか。ミキ、あんたデリバリーが足りないよ」
「あのう……それを言うならデリカシーだと思いますけど」
 凛太郎の控えめなつっこみにケイコは「やっだー、ギャグよギャグ」と凛太郎の背中をバンバンとたたいた。凛太郎はオレンジジュースを気管に詰まらせてむせかえった。
 明は凛太郎の背中をさすりながら、「このガサツ女が」とケイコに舌を出す。ケイコがあっかんべえをしようとした時、祥が話題を元に戻した。
「その事故とはいつごろのことですか?」
「ええっと、一年くらい前のことかしら」
 明には目もくれず、ケイコは祥の微笑みにほおを染めながら答えた。
「そうそう、いきなり車の事故で亡くなっちゃったの。私、あそこのおばさんに子供のころ、親に連れられて厄祓いしてもらったことあったんだけど」
 ミキが沈痛そうな面持ちになって言葉を続ける。
 ケイコはふと思いついたように言った。
「もしかして山神様のたたりだったりしてね」
 そういえばさゆりが襲われていた山は霊山だと秀信が言っていた。それを思い出しながら凛太郎は尋ねる。
「山神さまって?」
轟山のことよ。あそこに神様が棲んでるってうちのバアちゃんが言ってた。まあ、どうせ迷信だろうけどォ」
 ケイコはジュースをじゅりじゅりとすすりながら言った。
 凛太郎は思い出した。たぶんその山とは、さゆりが男たちに襲われていたあの山のことだ。秀信も霊山だと言っていた。
「けど、どうしてその轟山がさゆりさんに関係あるのかな?」
 祥が尋ねると、ケイコとミキは顔を見合わせて思わせぶりな目つきをした。
「それにはいろいろあってェ……」
 ミキが声をひそめる。
「いろいろって何だよ?」
 明がじれったそうに尋ねた。
「ええ~、でもこれってさゆりン家のプライバシーだしィ。むやみと話しちゃ悪いかなあ」
 ケイコが茶髪をかきあげながら言う。
 祥は黙ってズボンのポケットから財布を取り出し、ミキとケイコに五千円ずつ手渡した。
「祥さん!」
 凛太郎は思わず祥をとがめる。このふたりは明らかに祥にたかっているではないか。それにまんまと乗ってしまう祥が
くやしく思えた。
 祥は凛太郎の言うことが聞こえていないとでも言うように、ケイコたちに微笑みかける。ケイコとミキはにんまりと笑って、
五千円札を自分たちの財布にしまいこんだ。
 凛太郎はそんな三人がひどく薄汚れた人間のような気がした。
 明がこわばっていた凛太郎の背中をポン、とたたく。明は凛太郎の耳元にささやいた。
「そう目くじら立てンなよ。しょせんこの世は金次第ってことさ」
「でも……」
「もちろんそうじゃねえ人間もいるぜ。お前と俺みたいにな。こいつ、陰険眼鏡の子分だけあってさすが世慣れてるな。どうせ
普段から金と欲にまみれた生活してるんだろ」
 明は祥にべ~っと舌をつきだした。
 ケイコたちが不思議そうに明を見やる。祥は二人に頭を下げた。
「ごめんね、この男は情緒不安定でおまけに嫉妬深いから、よく僕にこうやってライバル心をむきだしにしてくるんだよ」
「誰がお前にライバル心なんか……」
「あ、すみません。明さまのライバルは秀信様でしたね」
「はあっ? 何で俺があんなヤローに……」
 いきり立つ明を尻目に、祥はケイコらへの質問を再開した。
「轟山とさゆりさんには何か関係があるのかい?」
 ケイコとミキはきょろきょろとあたりを見回して話し始めた。

時計はすでに夜の九時を回っていた。
 凛太郎は深呼吸して、さゆりの部屋のドアをノックした。
「だれ?」
 さゆりのとがった声が聞こえてくる。
「僕です、凛太郎です」
 扉の中からはこちらをうかがっているような気配があった。薄暗い廊下に立ちながら、凛太郎はこんなことをしなければ良かったと後悔し始めていた。
 特にさゆりとはあの山での一件から顔を合わせていない。あの話題が出たらどう対処しようと凛太郎は真剣に考えていた。その気の重さにもう自分からさゆりに接触するのはやめようかとも考えた。
 だが昼間、ケイコたちからさゆりの複雑な生い立ちを聞いてしまってから、さゆりを放っておけないと思ったのだ。
 大津家は代々所有していた霊山である轟山を他人に売り渡してしまったという。文彦が人形で金を儲けたから、さゆりの両親はこの家を引き払い、都会に出て行くつもりだったのだろう、とケイコは言った。だから轟山も不要だったのだろうと。
『まあ、そんなことしたから、バチが当たってその後事故で死んじゃったんだろうけどね』
 そう語るケイコはどこか小気味よさげだった。きっと文彦の人形によって、突然脚光を浴びた大津家の一員であるさゆりは、ねたみや中傷の的になったのではないか。
 凛太郎はそう推測し、なんとか悩みの相談に乗れないかと思ったのである。
 さゆりが暗い少女になっていくのと比例して、さゆりの周りでは奇妙な事件が起こるようになった。
 さゆりと敵対したものはみな不慮の事故や突然の病気になるのだという。
 それは凛太郎に勾玉に憑かれていたころの自分を思い出させた。
(まさかさゆりさんにも勾玉が……)
(でも単なるウワサかも。だって、さゆりさんを襲った男たちには先生が手を下すまで、何も起こっていなかったわけだし……)
 凛太郎が思いをめぐらすうちにドアは開いた。すでに入浴をすませたさゆりはパジャマ代わりのタンクトップを着ていた。それは濡れた黒髪とミスマッチして、あやうい女らしさを見せていた。
「何かしら?」
 さゆりにぶっきらぼうに訊ねられ、凛太郎はうわずった声で答える。
「ぼ、ぼ、僕っ。今日、この町のお店でケーキ買ったから、さゆりさんと一緒に食べようと思って」
 さゆりは鼻を鳴らした。
「なあんだ、夜這いかと思った」
 凛太郎は頬がかぁっと熱くなるのを感じた。
「冗談よ」
 さゆりはつまらなさそうに言ってから、凛太郎が手にしていたケーキボックスを一瞥した。
「ひょっとして、ここにひとつしかないあのちっちゃなケーキ屋で買ったケーキ?
もうすっかり食べ飽きちゃったんだけど」
「……ごめんなさい」
 うつむく凛太郎に、さゆりは肩をすくめた。
「べつにあんたが謝ることじゃないわ。入ってよ。あんたにこんなところに突っ立っていられると、兄さんうるさいから」
 こうしてさゆりは凛太郎を部屋に入れた。素早くドアを閉める。
「そこ座ってよ」
 さゆりはあごで畳を指した。凛太郎は「お邪魔します」と言いながら、ケーキボックスを開ける。中から出てきたシュークリームにさゆりはパッと顔を輝かせた。
「さゆりさんはお好きなんですか? シュークリーム」
「まあね」
 さゆりは喜んでしまった自分を恥じるようにわざと興味のなさそうな声で言う。凛太郎はシュークリームをさゆりに勧めるうちに、ふとなつかしい気持ちになって語り始めた。
「僕も大好きです。子供のころ、父がたまに買ってきてくれて、一度にたくさん食べておなかを壊したことがあります。祖母に叱られました。そんなことで鬼護神社の宮司がつとまるかって……」
 さゆりはふと眉を上げた。
「あんたの家って神社だっけ?」
「そうですよ」
「鬼護神社って、私聞いたことあるわ。たしか変わった伝説がある神社よね。昔、凛姫っていうお姫様がいて、鬼に恋されて刀を作ってくれたら花嫁になるって言って、その後、その鬼の作った刀に鬼を封印したっていう……」
 さゆりは意味ありげに凛太郎の顔をのぞきこんだ。さゆりは凛太郎の前世が凛姫だったことを知っているのか そんなことはない。凛太郎は必死に思い直して、話題をそらすことにした。
「さゆりさんって、なんでもよく知ってらっしゃいますね」
「やっぱり私の家も陰陽師なんてことをやっていたからだと思う。母がいろいろ話してくれたのよ。特に凛姫のことは」
「えっ?」
 凛太郎は思わず驚きの声を上げた。さゆりは何のことはないと言った風情でシュークリームを口にする。赤い唇に、白い生クリームが淡雪のようについて、さゆりの桃色の舌で舐め取られた。
「その話、もっと詳しく聞かせてください」「あら、どうして?」
「だ、だって一応、凛姫ってうちの神社の創始者様だから」
 凛太郎はさゆりのいぶかしげな問いにあわてて答えた。さゆりはふうん、とつぶやいて凛太郎を横目で見る。何か感づかれたか。凛太郎は身を固くした。
 さゆりは少し間を置いてから語り始めた。「この前見せた櫛あったでしょ? あれ、うちに代々伝わる櫛なの。凛姫がくれたんだって」
「凛姫が?」
 思わず凛太郎は身を乗り出して訊ねた。さゆりはうっとおしそうに身を引きながら答える。
「ええ。旅していた凛姫が、私の祖先にくれたんだって」
「へえ……」
 凛太郎の胸に奇妙な感慨が広がった。さゆりと自分にこういった関わりがあるとは思いも寄らなかった。凛太郎はいまだに自分の前世が凛姫であるとは信じていない。いや、信じたくない。まるで今ここに存在する「清宮凛太郎」を否定されているような気がするからだ。
 だが、凛姫という存在によってさゆりと共通点が見つかり、さゆりのこころを開くきっかけになればそれはそれで良かった。
 さゆりはしばらく何かを考えた様子を見せてから訊ねた。
「どうして凛姫がこんなへんぴな里に来たかわかる? しかも娼婦に過ぎない私の祖先にこんなものをわざわざくれたか」
「それは……きっとこの里に何か用事があったんでしょう。それに……」
 凛太郎はそこで言葉を切った。ここでこのことを言ってしまえば、轟山での一件にも触れねばならないかもしれない。
 だが、さゆりの心の傷を癒やすにはこの話題を避けてはいけないと思った。
「自分のご先祖さまをそんなに卑下してはいけません。先生だっておっしゃってました。桂女は心と体で人を癒やす素晴らしい職業だって」
 さゆりの涼しげな瞳が揺らいだ。もしかして自分の言葉がさゆりに届いたのかもしれない。凛太郎がそう期待し始めた時、さゆりは髪をかきあげながら言った。
「本当にそう思う? じゃあ今から私のことをあんたが癒やしてよ。ねえ、今から私を抱いてみせて」
 無意識に身を引く凛太郎にさゆりはしなを作って挑みかかる。
「ねえったら、ねえ! 早く」
「ぼ、僕はそんなことはできません」
 凛太郎はうつむきながら言った。さゆりのいいようにからかわれている自分が歯がゆかった。さゆりは鼻を鳴らして笑う。
「あんた言ってることと行動が矛盾してるのよ。まあ、どうせそんなことだろうと思ったけど。でもあんたのことは責められないわね。人間の精神なんて、時代次第でいくらでも変わるんだから」
 さゆりの気丈そうな顔に暗い影がさしたのを凛太郎は見のがさなかった。
「それってどういうことですか?」
「桂女のことよーーーー昨日、私があの男たちに言われたこと聞いてたでしょ?」
 凛太郎は黙ってうなずいた。さゆりは小さく嘆息する。自分の運命だから仕方がないとでも言うかのようなためいきだった。きっとさゆりは今まで何度もこういったためいきをついてきたのだろうと凛太郎は思った。そして凛太郎にもそんなためいきをついた記憶がある。
 エロ神社の息子。ホステスの息子。そう呼ばれるたびに、凛太郎はこんなためいきをついて耐えてきた。
 さゆりは遠い目をして言葉を続ける。
「生きてたころ、母さんが言ってた。桂女は昔、村人から尊敬されていた職業だったんだって。今日、あの弓削さんが言ってた通りよ。全身で人を癒やして、しかも占いもできる素晴らしい女性たちだって言われていたって」
 さゆりの白い顔がそこで突然けわしくなる。
「でもそれも途中で変わったわ。明治維新が起きて、この国にキリスト教文化が強く根付いてからよ。女が不特定多数の男と寝るのはみだらなことになって、おまけに陰陽師なんてものを国はおおっぴらに認めてくれなくなった。それはあの格式高い弓削家も同じことなのよ。あの秀信さんとやらはそうは思っていないかもしれないけれどね」
 さゆりは低く笑った。うら若い少女には似つかわしくないねじれた笑みだった。
 さゆりの話すことはそれまで凛太郎の知らないことだらけだった。凛太郎は口をはさむこともできず、黙ってさゆりの言うことを聞くしかなかった。
 さゆりは凛太郎にいどみかかるようにして迫りながら訊ねた。
「あんたも神社の跡継ぎなんでしょ。だったら感じたことはない? 今の世の中に、神に仕える職業なんか時代遅れだってことが」
「そ、そんなこと……ありません」
 凛太郎の声は消え入りそうだった。さゆりの言葉は少し以前の凛太郎の気持ちそのままだったからだ。
「嘘ね」
 さゆりは満足げに赤い唇をゆがめた。嫌な何かを振り切るように、黒い髪を手でかきあげる。
「どうせ人間なんて流されやすくて自分勝手な生き物なのよ。科学が発達していなくて、自然の災害が怖かったころは神様にすがってたくせに。そうでなくなったら、そんなものは迷信だ、で片づける。父さんも母さんも毎日暮らしに困ってたわ。民間陰陽師なんかに仕事を依頼してくる人も少なくてね。ひどい人なんか、単なるいんちきだって決めつけてるんだから。父さんの出稼ぎでどうにか暮らしていけたくらい。だから母さんは私を……」










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